NeoCulture#Journal

Neo Culture #Journal

ある文化がある異文化を受容するには、母体となる文化においての既成概念の破壊と伝統の再構築が必要となる。 Neo Cultureは、その過程を人為的かつ局所的に再現しようとする、一種の実験である。

Facts in Blanks-例外からのアプローチ。

突然ですが、私の素材と玉ねぎの炒め具合の関係性です。

 

[野菜]

基本玉ねぎは透明、ごく限られたレシピでのみ丁寧なあめ色に炒める。

 

[豆]

基本少し強めの火で玉ねぎの縁をきつね色にする程度に炒める。南系の場合は基本透明。

 

[パニール]

少し強めの火で玉ねぎの縁をきつね色~あめ色未満。

 

[チキン]

レシピによるがあめ色にすることはまれ。

 

[ポーク]

レシピによってボイルドオニオンペーストもしくは玉ねぎの縁を若干焦がすように深く炒める。サグのスタイルやドライタイプのカレーの場合はちょっと色着く程度にしか炒めないことも。

 

[ビーフ]

個人的にはスタイルに関わらず丁寧にあめ色に炒めたい。

 

[ラム・マトン]

レシピにもよるが基本的にはきつね色以上の炒め具合の玉ねぎで。サグに関してもあめ色玉ねぎにする場合あり。ただし、ごく一部のレシピでは透明程度にしか炒めない。

 

 

色々書きましたが、

非常にざっくりとまとめると、

 

あっさり系の食材には軽く炒めた玉ねぎを、

重たい食材にはしっかり炒めた玉ねぎを、

 

っていう感じです。

 

 

しかし、なんでしょうか。

この例外。

 

特にマトンカレーの、ごく一部のレシピでは透明にしか炒めない。

 

僕も今まであまり深く考えたことはありませんでしたが、かなり不思議な感じです。

 

あめ色に炒めない、というのはあめ色に炒めてもいいけど、透明にしておく、

のではなく、

あめ色に炒めると美味しくないので、透明で止めておく(炒めが深くなるにつれて美味しくなくなる)

という意味です。

 

というわけでそれぞれの料理を突き詰めて見てみました。

 

どこの、

だれが(宗教や人種)、

いつ、もしくはどういった状況で、

何と食べるのか(主食は何か)。

 

結果、大体のマトンカレーはあめ色玉ねぎで美味しく作れるものの、

 

少なくともインド北部ムスリムスタイルの食堂やおうちで食べられるようなマトンカレーでは、

あめ色玉ねぎが実は適していない場合があるようだという結論に至りました。

実際にインド人に聞いて「透明よりちょっと炒めたくらいがこのマトンカレーは一番おいしい」と現物を食べさしてもらえたものもあります。(それはパンジャブ地方のおうちマトンカレー)

あとカシミール地方の古典的なマトンローガンジョシュはあめ色の玉ねぎでは美味しく作れませんでした。

(美味しくない、というと伝わりやすいですが、焦点がぼやけるのでここで詳細な解説を。

あめ色に炒められた玉ねぎの味や香りが明らかに食材やスパイスと調和しておらず、カレー全体を乱して不協和音を奏でている感じ。)

 

これは恐らく料理のルーツに関係していて、

例えばマトンローガンジョシュひとつとっても、

特にカシミール地方において古典的な手法で作られるものは、料理の組み立てそのものが「インドの一般的なマトンカレー」と大幅に異なります。

その料理の組み立ての差が、素材と玉ねぎの炒め具合の相性に影響しているのではないかと考えています。

 

しかしこれもまた、

カレーという便利な言葉を用いて、

インドの料理を語る際の副作用である。

 

例えば、マトンカレーはあめ色玉ねぎで美味しく作れるとしたときに、

 

今、古典的なマトンローガンジョシュはあめ色玉ねぎで美味しく作れないという例外的な事象が生じた。

 

マトンローガンジョシュを見たときに皆一様にカレーであると感じるであろうが、(インドの食べ物だし)

もともと地理的にインドでもないこの地域の料理にカレーという言葉のもつ定義が当てはまるのであろうか。

カレーと言ってしまっても、作り方はカレーとは異なる。

 

ではそれは例外なのか。

このカレーは例外的な手法によって作られるカレーです。

 

果たしてそれはカレーなのか。

カレー以外の何かではなく、カレーの例外なのか。

 

我々が本当に美味しいインドの食べ物を作れるようになるためには、

まずカレーという言葉を捨てるところから始めなければならないのかもしれない。