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Layered Little Press #Journal(旧Neo Culture)

小さすぎる出版社Layered Little Press(旧Neo Culture)

ビリヤニ回顧録④-ダンパウのルーツを考える

-ダンパウとは?

 ビリヤニがルーツであると言われる、ミャンマー仏教徒が食べる味ご飯+ヒンの形態をとるご飯もの料理の総称で、インドの料理と認識されているもの。ミャンマー人はみんなインドの料理とは言うが、添えられるヒンはミャンマーのスタイルに近い。またインドの料理と言う認識であり、そこにイスラム教徒の料理という意味も包含されていると思われるが、イスラム教徒の料理とは言われない。

 

-ダンパウという名称の由来

 ヒンディー語ウルドゥー語Dum PukhtもしくはDumpukht、もしくはペルシャ語Dampokhtが訛ってDanbaukとなったと言われている。

 

-ダンパウのバリエーション

 ミャンマー国内には大きく分けて4つのバリエーションが存在する。さらに実際にはそこから派生した亜種が複数存在すると思われる。

 

Ⅰ-ビルマ族およびモン族等、おもびビルマ族の文化圏やその周辺でビルマ族からの影響を強く受けている民族のダンパウ。ライスの部分がバスマティライスを用いたサフランライスで、サフランライスには玉ねぎ、グリーンピースカシューナッツが必須とされる。

 

Ⅱ-Ⅰから派生したもので、カチン族及びシャン族のダンパウで、中華料理の影響が見られるもの。ライスは炒飯のものと炊き込みご飯のものがある。米種はタイ米や地米が使用され、炊き込みご飯のものにはバスマティライスが使用されることがあり、オレンジのフードカラーとフライドオニオンを使ったインドっぽい見た目のものバリエーションが存在する。カシューナッツグリーンピースも使用されるが、必須ではなく米の味付けや具材の定義が地域や民族ごとに異なってくる。

 

Ⅲ-現在のマンダレーからヤンゴンの間にかけてみられる南アジアのチキンプラオ様のダンパウ。

このダンパウはルーツがBurmese-Indianという移民の人たちにありⅠ、Ⅱのダンパウとは名称は同じだが、

・グレイビーを伴うマサラを使用しない

・南アジアのいずれの地域においてもdumpukhtおよびそれに類する料理に分類されない

ため、直接の関係はない可能性がかなり高い。しかしながら、このタイプのダンパウが当時のBurmese-Indianたちに何と呼ばれていたのかははっきりと分かっていない。歴史的には恐らくBurmese-Indianの本格的な流入の方がミャンマーのダンパウの成立よりも後の可能性が高く、ミャンマー人がインド人の炊き込みご飯=ダンパウとネーミングしただけという可能性もそれなりにありそうだと思っている。

 

Ⅳ-南アジアのいずれかの地方のいずれかのコミュニティにルーツを持つロヒンギャのダムビリヤニ(ビラニ)。また、ロヒンギャのルーツの多様性からすると、ロヒンギャビリヤニ自体がそもそも一種類ではない可能性がかなり高い。グレイビーを用いるDumpukht Biryaniの類であり、現在のルーツのダンパウになった可能性が高い。

 

また、ダンパウの中でもお弁当スタイルのもので、米と米の間にヒンが挟み込まれて埋まっているような、一見するとダムビリヤニの様に見えるものがあるが、これはⅠとⅡのお弁当用の形態と考える。また、ミャンマー国内にも他にイスラム教徒がいないわけではなく、Ⅳのうちのいくつかが彼らの移動、離散と共にミャンマー国内中に散っている。

 

-ダンパウのルーツにまつわる謎と仮説

①近年のロヒンギャ問題で注目を浴びるようになったミャンマー人と仏教徒の対立だが、イスラム教徒と仏教徒はそれ以前にも度々揉めている。仏教徒の中にはイスラム教徒のことをよく思っていない人が多いと言われるが、もしそうであればなぜ下手をすれば敵対することになる民族の料理を受け継いでいるのか?

 

→これに関しては、本当にイスラム教徒の料理ではなくインドの料理と言う認識のためである可能性があるが、ではイスラム教徒という本来ならビリヤニと切り離せない存在のイスラム教徒の存在がなぜ彼らの中で欠落しているのかが分からない。ただビリヤニミャンマーに伝わった時には、仏教徒イスラム教徒が仲が良かった可能性があって、その後その歴史が忘れられ、ビリヤニがダンパウとして仏教徒のものになった時代以降に、二つの宗教勢力としての対立が始まったと考えることはできる。

 

 

②ダンパウはミャンマーのどこで成立したのか?

 

ビリヤニが成立した以降で見ると、イスラム教徒と仏教徒が接していたのはラカイン州で、そこにはアラカン王国があった。アラカン王国は1785年に滅亡するまでベンガル帝国およびムガル帝国と国境を接しており、仏教国ではあったがイスラム教の信仰には寛容だったようだ。アラカン王国は1785年にビルマのコンバウン朝の侵攻によって滅んだとなっている。この中でミャンマービリヤニが受け入れられる土壌があったのは、おそらくアラカン王国だろう。おそらくラカインのロヒンギャにはいずれかの時点でビリヤニが既に伝わっており、それがアラカン王国の中でイスラム教徒から仏教徒への手に渡った後現在の形に近いものになって、コンバウン朝の領土の拡大もしくはその後、ビルマが英領インド帝国に併合されたタイミングで、人とモノの流れに乗って現在のヤンゴンまで伝わった可能性がある。

 

 

ビルマ族のダンパウはなぜサフランの使用にこだわったのか?

 

→これに関してはなぜだか全くわからない。ミャンマーで穫れるわけでもない高価なサフランの使用が廃れることなく今の今まで使われてきているというのは、ビルマ人の嗜好にもそれが合ったからなのだろうが、しかしそれにしても他にサフランを使う料理が特に存在するわけでもないうえ、お隣のカチン族・シャン族はサフランを使用しなくなっているにもかかわらず(それには中華の文化との相性があったはずだが)、サフランの使用にこだわっているのだろうか。後に出てくるが、見た目のためであった可能性はあるが、判断の決め手になる情報は今のところない。

 

 

④なぜダム調理をしなくなったのか?

 

→カチン族・シャン族に関してはロヒンギャビリヤニからすれば孫なので、距離的にも文化的にも遠いので形が変わるのは仕方がないとなるが、ビルマ族サフランの使用にはこだわったがダム調理にはこだわらなかった。これはビリヤニの食べ物としての寿命の短さと、イスラム教徒と仏教徒の文化的な違いが関係しているかもしれない。イスラム教徒のコミュニティでは、国や地域、宗派によって多少の違いはあるが、料理は女性の仕事でそれにかなりの労力と時間を費やす。例えばイランでは、ほとんど一日中何かしら料理に関わることをやっていないと間に合わないような程の調理時間を要する料理がたくさんあって、しかしそれがイランの伝統料理であるし、例えばウイグルでは常に急な来客のための食事の確保をしておかなければならず、いつ何人来るかも、来るか来ないかも分からない来客の食事に気を遣う文化がある。他にもイスラムコミュニティの大変な台所事情の話は沢山あって、これらは古臭い感じもするが、現代でもそんなことがあるのだから昔はもっとそうだっただろう。しかしそれはアジア人女性の台所事情とはやはり違う。食べ物がいたみやすい高温多湿の環境で、冷蔵庫もないのにビリヤニを炊きっぱなしにすることなんかできず、いつでもビリヤニを食べようと思えば、やはり冷蔵庫なしでもある程度保存が効くように作った自分たちの伝統料理ヒンをビリヤニのグレイビーの代わりに用い、米だけその都度用意するようにすれば良いとなったのかもしれないし、マサラを作ってダム調理まで含めれば2時間も3時間もかかってしまうのだから、そんなに鍋につきっきりにはなれないというライフスタイルや価値観の違いもあっただろう。しかしなぜ、ビリヤニという名称ではなくdumpukhtの方を採用したのかは分からない。ダム調理しないのなら、ビリヤニと言った方がごまかしも聞きそうなものだが、もしかするとイスラム文化と接していた当時のラカインの中では手間暇を惜しみなくかけるイスラム教徒の食文化に一種のあこがれのようなものを仏教徒の人たちも持っていて、それゆえ名称ではなく調理法を指すdumpukhtを、一種の雰囲気出しのために料理名として採用したのかもしれない。

 

 

-ではそのロヒンギャビリヤニのルーツになったものは?

 

→これもよく分からないが、手掛かりになりそうな情報がいくつかある。

 

・ダンパウという名称

ダンパウがダンパウと呼ばれるようになるためにはロヒンギャビリヤニがまずDumpukht Biryaniという名称でなければならない。この名称はダムビリヤニ全てに用いられていたわけではない。例えばビリヤニが成立したとされるムガル帝国では、シャー・ジャハーンの時代のレシピ集にはzerbirynanという名称で載っておりダムのダの字もない。

Dumpukhtという響きはかなり古めかしくて、厳格なイメージを伴う調理法を含んだ意味合いのネーミングで、調腕利きのシェフがきちんと伝統的なスタイルで作ったダムビリヤニということが名前だけで相手に伝わる。つまり安易に使用できる名前ではなく、使うことには社会的な責任みたいなことが伴う、そんなネーミングだ。そしてDumpukht Biryaniという名称を採用して現在でもその名残が見られるのは当時のアワド(現在のラクナウ)とニザーム王国(現在のハイデラバード)だ。他の地域にもあるにはあるが、これに関してはレプリカ的なものが多い。余談だが、他に用いることができる名誉的な名称にはShahiという冠言葉がある。これは本当にただの冠言葉なのでShahi BiryaniだろうとShahi Daalだろうと各人が好きに用いることができ、定義も特にない。

ムガル帝国イスラム帝国であったが、アクバルの時代には様々な地域の様々な宗教の文化を取り入れ、それは食文化でもそうであった。しかしそれと対照的に、ムガル帝国から独立したニザーム王国はかなりガチガチのイスラム文化でそれは料理にも表れていると思う。ロヒンギャは現在でも保守的なイスラム教徒と言われているが、当時のニザーム王国やその周辺のイスラム教徒と、接触さえできればとても馴染みやすかったであろうということは想像できる。イスラム教徒である以上コーランを持ち、ある程度のアラビア語をみんな理解するので初見でも挨拶から始まってある程度の会話は可能だったケースが多くあるだろう。殆ど個人的な推測だが、あまり外れているとも思えない。 

アワド料理に関しては、ムガル帝国の流れを引きつつも、様々な地域の料理をまた独自で取り入れ、ダムの調理技術をムガル帝国のものよりさらに発展させた。それゆえにダムビリヤニはアワド料理の中の最高峰の一つに位置付けられる。また、アワドのビリヤニサフランで米を真っ黄色にするものも見受けられ、カシミールサフランプラオを介さずに、これが直接ロヒンギャに伝わり、ダンパウとなった可能性もある。ただ、アワドとアラカンの交流を示す資料があるのかないのかもまだ分からない状況なため、この線に関しては引き続きの調査が必要である。

 

 

ビルマ人がこだわるサフランライス

玉ねぎ、カシューナッツグリーンピース、バスマティライスで作られるサフランライスが、カシミールにある。もちろんインドでもあるが、インドで同様の料理はレストラン料理か宮廷料理に分類され、庶民はほとんど食べることがない。なぜならサフランが手に入りづらく高い上に、インド料理には馴染まないからだ。そんな馴染まないものに高いお金を払うくらいなら、米を買って腹を満たすのが人間だろう。ところがそれもサフランが比較的手に入りやすく、食文化にも親しみがあるカシミールでは事情が違い、貧しい人たち以外はそのサフランライスを食べる文化がある。現地ではサフランプラオということが多いが、これは北インドバングラデシュの人たちがよく食べるプラオのバリエーションの一つで、要するにカシミールではサフランに親しみがあるのでよく使うということだ。

当時のロヒンギャの人たちがどれくらい裕福な人たちがどれくらいいたのかなどはよく分かっていないが、ダンパウは別に金持ちが食べる料理と言わけでもないし、ビリヤニもまたイスラム教徒なら誰もが食べる料理だ。ロヒンギャから仏教徒へのダンパウの受け渡しは上層階級の間でも行われたかもしれないが、普通階級の人たちの間でも当然行われただろう。そして当時のロヒンギャの中に相当数いたであろう南アジアからの移民の中にカシミール人がいたとすれば、このサフランライスもラカインに伝わっただろうし、逆に庶民にサフランライスが伝わるためには、ロヒンギャのコミュニティの中に庶民でサフランライスを食べる文化を持つ人が必要で、庶民でサフランライスを食べる文化がある南アジア人はカシミール人が主だったところで、後は西アジアのイラン人となる。ただイラン人はカシューナッツをプラオに使うことは余りないので、消去法でカシミール人が残ることになる。

そして後にこの同時に存在したビリヤニサフランライスが、後のダンパウを構成したということなのだが、実はサフランでお米を真っ黄色にするビリヤニが非常に少ないということがある。これもまた理由は同じで、サフランが手に入りづらい上に高いからだ。今では輸入食材店でどこに行っても変えるサフランだが、当時に関しては全くそんなことはない。ダムビリヤニは白いお米と、グレイビーの黄色に茶色、それにサフランの色に、フードカラーだ。それらをダム調理の後に混ぜて初めてビリヤニのきれいな色になる。炊いた白米にヒンをかけただけでは余りにも見た目が貧相だが、本物のビリヤニは前述の通りあまりに大変なことが多いので、グレイビーはヒンにしつつサフランライスを別で採用して、今の形になった可能性はある。もちろんこの交流は庶民の間でも行われていただろうが、あまりにも一定のフォーマットとしてビルマ人の間にこのダンパウが残っているので、どこかのタイミングで格式のある誰かが、これを正式なフォーマットとして採用していたローカルな歴史があったりするのかもしれない。

 

 

・歴史的な出来事から考えて、ムガル帝国ベンガル帝国、現在のバングラデシュのスタイルのビリヤニがルーツではない

まずベンガル帝国は当時のラカイン州の一部を支配していたという話があり、おそらく領土内に一定数のロヒンギャもしくはロヒンギャのルーツとなった人たちを抱えており、また仏教徒の勢力と国境を接していた。一定の交流が双方であったであろうが、1576年にムガル帝国に吸収される形で滅亡している。おそらくベンガル帝国があった時代には、ビリヤニはあったかもしれないが、Dumphukutと名の付くビリヤニはまだ無かったと思われる。よって、ベンガル帝国ルーツというのは考えづらいだろう。

ムガル帝国とアラカン王国の関係は、正確なことがよく分からない。ただ、ベンガル帝国がラカイン州の一部を支配していたのだが、ムガル帝国の領土は最大でもそこから西へ少し後退して現在のチッタゴンまでだった(ラカインまで到達したという話もある)ようだ。チッタゴンは丘陵地帯となっており、陸路での移動はなかなか大変だったようで、その地形が影響して、現在でもチッタゴンの文化や言葉はダッカともラカインとも違う独特のものとなっている。ベンガル帝国時代に領土がラカインまで続いていたとすれば、チッタゴン経由のダッカ-ラカイン交易路のようなものがあったであろうが、ムガル帝国になってからは、その交易路も失われてしまったかのかもしれない。よって現在のラカイン州ロヒンギャにもムガル帝国との文化的なつながりを求められる可能性は余り高いと思えず、ダンパウという名称からも、ムガル帝国ルーツも完全に否定できるわけではないが他の可能性から探った方が良いだろうという位置づけである。

現在のバングラデシュビリヤニは、ロヒンギャビリヤニとは全く違う。これは純粋にダッカの文化がチッタゴンによって地形的に遮られているからである。また、現在のロヒンギャの中にはチッタゴンにルーツを持つ人もいるようだが、チッタゴンロヒンギャの文化もまた大きく違う。そしてなによりチッタゴンには、現在のロヒンギャが持っているようなダムビリヤニが文化的に存在していない。ビリヤニイスラム教徒の料理だが、イスラム教徒皆が食べるわけではない。別にコーランビリヤニの作り方が書いてあるわけではないからだ。

 

-まとめ

以上のことから、現在のミャンマーのダンパウのルーツになった料理はロヒンギャビリヤニである可能性が高く、そしてそのルーツは以下の三つの可能性にまとめることができると思われる。

 

①アワド(現ラクナウ)のDumpukht Biryani

②ハイデラバード(ニザーム王国成立以降のいずれかの時点)のDumphukut Biryani

カシミールサフランプラオとハイデラバードもしくはアワドのDumphukut Biryaniの合成

 

大分いいところまで迫れていると思うが、後はここからアワドとラカインの交流、カシミールからラカインへの移民の実績(勝手だがカシミール人はあまり外に出ないイメージがある)、ハイデラバードの歴代の王国とラカインの交流を探っていかなければならないが、なかなか困難を極めそうどころか、果たしてあるのだろうか、資料。そしてもちろんこれらのどれでもなかった可能性すらあるわけで(というかここまでもほぼ全部推論!)、そのうちここで述べたすべてのことをひっくり返す新説が登場するかもしれない。

 

※この話はミャンマーのダンパウのルーツになった、当時のロヒンギャのコミュニティの中に存在していたであろう、特定のビリヤニについての話で、ロヒンギャビリヤニ自体は複数のルーツを持ち、一つに絞ることはおそらくできないと思われる。